第三回「スキモノムスヒ」
“スキモノ”のご縁を結び、数寄者のお茶を復興できればという想いから、昨年に発足した「スキモノムスヒ」の会。第三回目は、藤田美術館の藤田清館長、万 yorozuの徳淵卓さん、そして前回の開催地であった滴翠美術館の山口昌伸副館長、谷松屋戸田当主の戸田貴士の四人に加えて、スペシャルゲストとして武者小路千家の千宗屋若宗匠にご参加いただく運びとなりました。流儀を離れた「茶人」として、ご本名で参加していただくのはどうか、という藤田館長のアイデアで、今回は千方可さんとしてメンバーに加わっていただきました。博多、芦屋と続いて第三回目の開催場所は、藤田館長とも縁が深い、京都・吉田山の山荘「茂庵」となりました。今回は、まだ暑い9月半ば、一日一席の会を二日にわたって開催しました。以下は、参加者の皆様との会話の記録です。
寄付にて
今回の会場である「茂庵」は、京都・神楽岡(吉田山)の山頂に位置する山荘です。昭和初期、数寄者・谷川茂次郎*1によって吉田山山頂の一帯に茶苑が築かれ、たびたび大規模な茶会が催されていました。「茂庵」はその茶苑内に作られた建物の一つであり、当時は食堂として使われていました。現在は、茂次郎の雅号に由来する茂庵という名称で、カフェとして営業されています。当時も待合として使われていた小さな庵で、参加者の皆さまをお迎えした後、本席である「静閑亭」へご案内しました。
*1: ⾕川茂次郎(1864-1940):運送業で財を成し、茶の湯に精通し⽂化事業にも尽⼒した数寄者。吉⽥⼭の⼭頂に茶室⼋席、⽉⾒台、楼閣など広⼤な森の茶苑を築きあげ、たびたび茶会を催し茶⼈としても多くの⼈と交流を深めた。現在は、当時の点⼼席と茶席⼆棟(⽥舎席・静閑亭)が残っており、旧点⼼席はカフェとして営業され、茶席は貸し出しを⾏っている。旧点⼼席、静閑亭、待合、⽥舎席はいずれも、平成16 年に京都市の「登録有形⽂化財」に登録されている。
本席にて
徳淵 卓(以下 徳淵): 改めまして本日はご参加いただき、ありがとうございます。あらゆる時代の目利きによって残されてきた道具の魅力を「茶と酒」の席で伝え、現代の数寄者たちの縁を繋げたいという想いで、同世代で集まって始めさせていただいたスキモノムスヒも、今回で第三回目の開催となりました。季節や開催場所、メンバーを都度変えながら、この会自体も毎回新しい趣向で育てていきたいと思っています。本日は、どうぞ気軽に楽しんでいただければと思います。
藤田 清(以下 藤田):第三回目を開催できることが嬉しいのはもちろんのこと、ここ「茂庵」は、僕の幼馴染が代々持っている場所ということもあり、令和となった今この場所でお茶会を開催できるということがとても感慨深いです。幼稚園から高校まで共に過ごした同級生の谷川さんは、茂次郎のひ孫に当たりますが、本日の会にも参加してくださっているので、後でお話を聞きたいと思います。
戸田 貴士(以下 戸田):本日は市中の山居というコンセプトで、皆で相談しながら取り合わせを考えました。いろんな道具が出るので楽しんでださい。
山口 昌伸(以下 山口):前回から引き続き参加させていただき、ありがとうございます。本日は、滴翠美術館からも京焼コレクションをはじめ、いくつか道具をお持ちしました。谷川さんとは当館としてもご縁がございまして、ご当主のお母様が当館で茶道教室を開いておられたんです。阪神大震災を機に教室は閉められたのですが、小さい頃から谷川さん、という名前はよく聞いていたところ、三年ほど前に藤田さんから谷川さんを直接ご紹介いただきました。そして今回の会の開催に至り、ご縁深さを感じております。本日はよろしくお願いいたします。
千 方可(以下 千):武者小路千家の千宗屋です。ただ今回は流儀を離れて、茶の湯を楽しむ一「茶人」として、本名で参加させていただいております。この会については、皆で楽しそうにやっているな、とインスタグラムで拝見していましたが、今回は京都で開催するということでお声がけいただき、仲間に加えていただきました。谷川さんとは直接のご縁はなかったのですが、茂庵のカフェは以前にお邪魔したことはありました。ここ吉田山にある吉田神社は、節分のお祭りで有名な神社で、節分の三日間は京都中の人がお参りに来ます。瀟洒な建物でお茶室もあり、雰囲気がいいな、お茶ができたら楽しそうだなと気になっておりましたが、今回のスキモノムスヒが茂庵で開催されるということで、場所自体にも大変興味はあったので、ぜひ、ということで参加させていただきました。
徳淵:それでは皆様、どうぞお菓子をお召し上がりください。ここからも近い、永観堂の菓子舗「とま屋」製の栗きんとんです。後ほど、軸の趣向に合わせた干菓子もご用意しておりますので、お楽しみに。
-数寄者の大先達、松平不昧
千:床に掛けている軸は、松平不昧筆の水月の自画賛です。今回、どんな道具を持ち寄るか打ち合わせをしているとき、開催時期は9月下旬、スキモノの集まりということで、すぐにピンときたのが、この軸でした。松平不昧公は、出雲藩七代目のお殿様で、戸田さんと官休庵にとってもご縁の深い人物ですが、何より数寄を楽しむ我々の大先達であり、大変な茶道具のコレクターだったんですね。この軸は、不昧さんが「今宵ぞ秋のもなかなりけり」という有名な句*2 を、水面に映る月の絵とともに、さらっとお描きになったものです。実はうちにあったもので、これを掛けてはどうかと提案してみました。
*2: 平安時代の『拾遺和歌集 巻三 秋』にある源順(みなもとのしたのごう)の歌、「水のおもに てる月浪をかぞふれば こよひぞ秋の もなかなりけり」の下の句。秋の「最中(=真ん中)」、現在の太陽暦における9月中旬頃の「中秋の名月」を愛でた歌として有名。
-神楽岡のスキモノ、不入と文山
千:そして、ここ吉田山には、不昧さんに非常に愛された才人が住んでいたということを、ハッと思い出したんです。吉田山は、別名で神楽岡とも呼ばれているのですが、江戸後期に、神楽岡不入と名乗った漆作家で数寄者、というか変人がいたんですよね。
藤田:スキモノですね。
千:彼は漆の細工が上手だったので、不昧さんに見込まれて、松江に来いと言われたのに頑として行かなかったんです。不昧さんにも面白がられて、そのうち「松枝不入(=松江に入らず)」、という名前を名乗り始め、神楽岡の不入という通称で知られるようになりました。この不昧さんのお軸がきっかけとなって、吉田山という繋がりから、不入さんに呼ばれたような気がして、不思議とお道具も色々と出てきました。
徳淵:寄付に掛けていた軸も、不入さんが持っていた不昧筆の下絵で、戸田さんの蔵から出てきたものなんですよね。
戸田:はい、不昧が描いた茶室のスケッチで、箱が神楽岡不入所持となっています。スキモノムスヒの打ち合わせをした後に、偶然にも蔵で発見したので、ご縁を感じて今回持ってきました。不入がこの吉田山に茶室を建てる時に、不昧がラフスケッチとして描いたものではないかと。その茶室は現存していませんが、不昧に茶室をプロデュースしてもらったのか、など想像が膨らみますね。数寄者の不昧、そこから神楽岡の不入へと繋がり、人と道具がどんどん結ばれていきました。まさにスキモノムスヒの醍醐味です。
戸田:床の花入は古窯の渥美壺をお持ちしました。平安から鎌倉初期のものですね。渥美焼は、絵画的な線彫りが特徴ですが、この壺は蓮弁のような文様が施されています。渥美焼は宗教的な用途で作られたものも多く、おそらくこの壺も元々は経筒に使われていたのかもしれませんね。花は山芍薬にススキです。
徳淵:錫縁の香合は、滴翠美術館さんがお持ちくださりました。蒔絵の状態も美しいですね。
山口:蝶の時代蒔絵が施されている、15世紀室町時代頃の⾹合です。こちらも松平不昧所持のもので、 後に雲州松平家より柏木彦兵衛(兵庫)宛に本作品を譲る内容が書かれた添状があります。
千:本日、床には濃茶の茶入と茶杓を飾っていますが、茶入は宗旦在判の時代町棗です。茶杓は一双となっており、一本は不入さん作のもの、もう一本は神楽岡文山という人物が作ったものです。文山は、ここ吉田山で江戸後期に活躍した、なかなか変わった陶芸家で、不入とも交流がありました。その文山と不入が一本ずつ作った茶杓が同じ筒に収まっています。
千:まさに神楽岡のこの場所で、ご近所付き合いの二人が、おそらく同じ竹を使って削った合作です。茶杓には文字が彫られていて、片方には不入の「不」、もう片方には愚作ということで「愚」と彫られています。筒も文山が書いており、年号は「天保壬寅春三月」となっています。
徳淵:神楽岡に住んだスキモノ同士の合作ということですね。今回は、滴翠美術館ご所蔵の文山の京焼コレクションをお持ちいただきましたので、後ほど、展観席の方で皆さまにご覧いただきたいと思います。
-不入の茶箱
千:今回は、あくまで気楽に、吉田山の上でお月見しながらお茶を一服という趣向で、茶箱で薄茶を二服差し上げたいと思います。この茶箱は私の手元にあった不入作のもので、漆と砥の粉で銭柄が施されています。まさに不入さんの里帰りの趣向ですね。
戸田:お金を入れる銭箱のようなものが、茶箱に見立てられたのかもしれませんね。
千:茶箱には決まった点前はなく、亭主がその時々に応じて臨機応変に工夫するものなので、私もアドリブ的にやらせていただきます。皆様、ご気楽にくつろいでいただければと思います。
千:今回の茶碗は、茶箱に合わせてということで、四人で茶箱サイズの茶碗を持ち寄りました。この棗だけ唯一流儀のものですが、武者小路千家七代・直斎が春日の杉で作らせた一服入りの棗で、銘が「三笠山」となっています。ここ神楽岡にある吉田神社が、春日大社の神様を祀っているということもあり、今回この棗を持ってまいりました。京都においては、吉田山を三笠山に見立てていたんでしょうね。平城京の東に鎮座していた三笠山の春日大社と、京都の東にある吉田山は位置的にも類似していますしね。また風炉釜と水指も、小ぶりなものを用意しました。釜は、柄杓がギリギリ入るくらい小さいのですが、この大きさだとテーブルでも楽しめるんですよね。
参加者:この絵唐津、古そうですね。
千:桃山ですね。元々は向付の離れだと思います。今日は、よくこれだけ揃ったなという小ぶりの茶碗ばかり出てきますよ。
徳淵:二服差し上げてから、すべてのお道具を拝見に回させていただきますね。
徳淵:本日の干菓子は、掛け物にちなんで最中でございます。
千:まさに本日の不昧の軸に書かれているこの歌が、お菓子の「最中」の起源となっています。丸い形を月に見立てているんですね。
参加者:この粉引。嬉しい茶碗ですね。
戸田:こちらは祖父・鍾之助が自分の茶箱に仕組んでいた粉引の小服茶碗です。井上馨の旧蔵で、絵唐津の茶碗と一緒に組んで、最高傑作の茶箱だと自画自賛していました(笑)。この白がいいんです。
千:茶箱の茶碗の王様と言ってもいいですね。粉引は、そもそものボディの白さが重要ですよね。白さがあるから味シミも際立つという。全く古びない、素晴らしい茶碗です。
徳淵:茶箱の茶碗、各種勢揃いというところですね。
千:このサイズの茶碗がここまでのバリエーションで一度に見れる機会は、なかなかないですよね。茶席にしては茶碗が出すぎなんですけど、これは通常の茶会ではございませんので(笑)。
参加者:この金彩の筒茶碗は?
山口:こちらは当館所蔵の京焼で、青木木米による色絵茶碗ですね。色絵の木米って珍しくて、なかなかないんです。こちらは山口家の茶箱に組まれていたものです。
藤田:木米はカンカンに焚いている窯に耳を当てて、焼ける音を聞いて焼成温度を確かめていたそうで、その結果、耳が聞こえなくなり、自身の名前を聾米と名乗ったという逸話もありますね。
-谷川茂次郎の「数寄」
藤田:さて皆さま、こちらが茂庵のオーナーである谷川さんです。僕にとっては幼馴染で、この会にいるのがなんとも不思議でなりません(笑)。本日はご参加くださり、ありがとうございます。
谷川 隆史(以下 谷川):こちらこそ、曽祖父が作った茶室でこうした茶会を開催してくださり、ありがとうございます。幼馴染の藤田さん、ご近所の山口さん達にご縁をいただいて、今日はとても楽しみにして来ました。祖母や母はお茶をしておりましたが、僕はお茶のことは分からないので、色々と教えてください。
藤田:こうした形のものは「塩笥」と呼ばれます。李朝時代、朝鮮の焼き物です。おそらく昔は薬味などを入れていたんじゃないかなと。皮とか紙を蓋にかけて、紐で縛ると締めやすいでしょう。茶碗としても、盃としても使えます。
藤田:これは樂茶碗といって、赤樂と黒樂の二つがあり、最初は利休の注文で作られました。赤樂も、当初はここまでは赤くなかったんです。暗い茶室で赤樂の茶碗を持つと、手の色とすごく近いように感じるんですよね。おそらく利休が赤樂でやりたかったのは、茶碗の存在を消すためじゃないかなと思っています。黒樂に関しては、もはや暗さの中で茶碗自体を消していますね。茶室も、利休が作ったものは暗いですが、その後、窓をつけた茶室が出てくるようになりますね。
谷川:暗い茶室で見ると、見え方も変わってくるんですね。
参加者:こちらの茶室は、いつ頃できたのですか?この屋根を見ていると、よっぽど「数寄」だなと思いますね。
千:柱がすごいですよね。奇を衒うような、田舎屋というか。木の枝の下にいるような気持ちになりますね。
谷川:竣工は1926(大正15)年頃だと聞いています。松の丸太が組み合わされていて、天井の野趣が面白いですよね。当初は、立礼の茶室だったようです。また地下室がタイル張りで装飾されていたり、モダンな趣向です。
参加者:イスラム文様のような洒落たタイルですね。昭和の初めだったら、輸入してたんでしょうかね。
谷川:僕も輸入のものと思って専門の方に聞いたら、日本製だそうです。タイルも数寄の世界ですね。
戸田:今残っている茶室はここ静閑亭と田舎席のみですが、もともとは八席あったようです。過去の茶会記を見ていると「土足庵」や「気儘庵」といった名称の茶室も登場していますが、どんな茶室だったのか気になりますね。
-茶箱のロマン
戸田:こちらの祥瑞の茶巾筒は、滴翠美術館さんがお持ちの大変貴重なミュージアムピースなんです。「ないもん」です(笑)。
山口:ここに「大明崇禎*3」という年号が入っているんですが、祥瑞で年号が入っているというのは、ほとんど類例がないんです。これがあることで、祥瑞がその頃に作られたということが判明したので、研究者の間では資料的にも有名な茶巾筒となっています。小躍りしている男衆が描かれていて、朗らかな絵柄です。
千:渋いお道具の中に、こうした祥瑞の青が入ることでピリッとしますよね。
戸田:自分で道具を組むことができる茶箱はロマンですよね。集め続けて、バチッと決まると何より嬉しい。仕覆もそうですが、色々な国、素材、なんでも自由に詰め込むことができる。先人の数寄者が茶箱に夢を抱いてきた理由はとてもよく分かりますね。
*3:大明崇禎:中国・明の最後の皇帝、第17代皇帝朱由検の治世中で使用された元号。崇禎年間は、1628年〜1644年。
-「見立て」の妙
参加者:この蓋置も不入作なんですね。
千:はい、竹で五徳の形を模しています。金属のものを竹で作るという発想が面白いですよね。箱書きによると、不入が七十歳の頃に作ったもののようです。
参加者:この一服棗は、はじめにご説明いただいた、七代・直斎の注文による春日の杉で作られたものでしたね。
千:蓋裏には「三笠山」と書かれていますので、ぜひ蓋を開けてご覧ください。
参加者:これは春日の御神木なのでしょうね。茶杓は、象牙ですね。小さくて可愛らしいですね。
戸田:実は茶杓のルーツは象牙にあるんです。元々は青銅器で、そのあと象牙になって日本に輸入されて、そこから匙文化が日本に広がったのではないかと思います。茶杓にも「真行草」がありますが、唐物を写すところから和物の道具は独自に発展していきます。金属の五徳を竹で模した不入も、吉田山を、奈良の三笠山になぞらえた京都の古人も、茶杓文化の発展も、全てが「見立て」によるものですもんね。
-忙中の閑
参加者:待合ではなく薄茶席にも、煙草盆を置くんですね。
千:薄茶席の場合はくつろいでくださいという意味で、煙草盆を回しています。そして、ここが正客の席ですよ、という目印にもなっています。小ぶりな鼠志野の火入は滴翠美術館さんがお持ちくださりました。
谷川:この煙草は、吸わないんですよね。
藤田:吸っていいんですけど、原則吸っちゃダメなんです…って、すごく難しいんですよね。僕は分からなくて何回か吸ったことあります。
千:桃山時代は、煙草はお茶と同じくらい贅沢な高級嗜好品だったんですよね。煙草を吸うことも、お茶を飲むことも一服っていうじゃないですか。
藤田:昔の人は、タバコを喫むって言ってましたもんね。
千:濃茶のことを吸い茶なんて言いますしね。
谷川:酒も吸うって言います(笑)。
千:元を正せば、一服っていう単位は薬のことで、「服用する」というところからきているんですよね。日常から少し離れた時間を過ごすときの嗜好品という意味で、お茶と煙草は同じ位置付けでした。それを楽しむ場というのは、つまり日常を離れてくつろげる別世界だったと思うんです。桃山時代に煙草というものが入ってきて、当時の茶人がお茶の席でも最新の贅沢品を早速取り入れて楽しんだ、というのが、茶席に煙草盆が飾られるようになったことの始まりだったんです。
藤田:喫茶で、喫煙ですね。中国に行くと、抹茶ではないけれど、お茶と煙草でもてなしてくれる場所もありますよね。
千:ネイティブアメリカンがタバコを回し飲みして結束を図るパイプセレモニーがありますが、濃茶の回し飲みも似たところがありますね。
戸田:忙しい中でも、茶室に入ると日常から離れて心が落ち着くので、好きなんです。お茶を始められた海外の方が、茶室では、心が高ぶっている時は少し下がって落ち着き、下がっている時は引き上げられる、つまりニュートラルな状態になれる、ということをおっしゃっていましたが、まさにそういった場だと思います。現代では、畳のある家さえも減っていますが、仲間との時間を共有できて、道具としっかり向き合える茶室は大切な空間であり、必要な経験だと思います。
徳淵:ではこの後もどうぞ引き続き、お楽しみください。点心席の方で、お酒と酒器と、美味しいお料理をご用意しています。
点心席にて
「静閑亭」での茶席の後は、酒器を楽しむというスキモノムスヒの醍醐味でもある点心席へと移動していただきました。現在カフェとして営業されている二階建ての建物は、昭和初期の谷川茂次郎の時代にも、茶会の際には点心席として使われていました。今回の料理は、出張茶懐石の名店、京都・三友居が担当くださりました。
徳淵:皆さま、お待たせいたしました。四人で持ち寄った盃を並べておりますので、お好きなものをお持ちいただき、酒宴を始めさせていただきたいと思います。走らないように、ゆっくり来てください(笑)。
藤田:歩くとギシギシいいますね。
谷川:床が一枚板なんですけど、ここから何かこぼしたら一階の厨房の天井から滴り落ちるんですよね。
藤田:この日本酒、銘が「谷川岳」なんです。酒屋で見つけて、ネーミングがピッタリなので迷わず買いました。
谷川:ラベルも月で、本当に今回の会に合ってますね。僕も、次回何かの会があれば仕入れておきます(笑)。
戸田:昔の茶会記を読んでいると、懐石で、谷川茂次郎手造りの徳利がよく登場していましたよ。
参加者:陶芸もされていたんですね。このポテトチップのカラスミ掛け、菊に見立てているんでしょうかね、面白いですね。
参加者:お酒だと思ったら、お酢になってしまった、みたいな徳利ですね(笑)。
山口:こちらは、滴翠美術館よりお持ちした古清⽔焼の徳利です。スキモノムスヒの「ス」ということで(笑)。この「す」は、 「す」の万葉仮名である「酒」、そして変体仮名である「寿」という意味があります。めでたいスキモノムスヒの茶会でお酒を、という意味も込めて、お持ちしました。
徳淵:今回のお料理は、三友居さんが茂庵の雰囲気に合わせて、野趣あふれる献立を考えてくださりました。甘鯛の若狭焼に、生姜餡がたっぷりと絡まった冬瓜です。
徳淵:最後のご飯は「つまみ御料」です。後鳥羽上皇が島流しにあった際に島民が献上したご飯と言われており、まぜごはんの原点だそうです。素朴で美味しい、格式の高いごはんです。わかめおにぎりのような形で取り回すスタイルです。
参加者:何が出るかなと楽しみにしていましたが、思いもよらぬ献上飯ですね。
藤田:それにしても、ここの景色は本当に良いですね。
谷川:ここからは、大文字、鳥居と舟形の送り火が見えます。
千:ここだと、目の前にビルが建つこともないでしょうから、眺望は確保できますね。谷川さんは京都とはどういうご縁だったのでしょうか?
谷川:父はかつて百万遍に住んでいましたが、今は僕も含めて、皆兵庫県に住んでいます。曽祖父は大原出身なんです。大原にも「茂庵」という名前の茶室を作っていたようです。
徳淵:さて、こちらに展覧席も作っています。不入の茶杓や文山の花入、そして修学院焼の水指を飾っております。今回の趣旨に合わせて、ということで滴翠美術館の山口さんがお持ちくださりました。
山口:なぜ今回修学院焼をお持ちしたのか?ということで、少し不思議な体験についてお話しさせてください。いや、前回のような怖い話ではありませんよ。今回、スキモノムスヒの最初の打ち合わせを現場の茂庵で行うことになりまして、その日は現地集合でしたので、私は一人で、吉田神社を経由するルートで茂庵まで上がってきたんですね。そうすると山道で迷ってしまって、途方に暮れていると、開けた場所が見えてきました。そこに、石碑があったんです。
山口:ここは南北朝時代に、足利尊氏と後鳥羽天皇が争った神楽岡の戦いの地でもありますので、そうした戦で亡くなった魂を慰霊する碑なのかなと思い、手を合わせようと文字を見ました。すると、「霊元法皇御幸址」と書いてあったんですね。つまり、霊元天皇がこの吉田山に立ち寄ったという記念碑なんですね。京都御所を出発して、修学院に行く途中に、この場所があったんです。そこで私、気がついたんですね。「修学院焼と言えば滴翠美術館だ」、と。
一同:(笑)
山口:ということで、こちら、まさに霊元天皇の窯で焼かれた、修学院焼の水指をお持ちしました。修学院の下の茶屋で拝領したという、本願寺伝来のものでございます。他には、当館所蔵の神楽岡不入の茶杓と、神楽岡文山の花入も飾っております。
千:文山の花入の彫りの字を見ると、先ほどの茶席で飾っていた茶杓の筒と同じなのが分かります。ぜひ後ほど、お近くでご覧ください。
徳淵:では皆様、そろそろ中締めさせていただきたいと思います。それでは千さんから、コメントをお願いいたします。
千:今日は初めてスキモノムスヒの会に混ぜていただき、楽しい時間を過ごさせていただいております。どうしても茶道という流儀の意識が強い方も多い中で、こうして道具が好きで、お茶を通した遊びを楽しむ方のご縁が繋がっていくことは素晴らしいですね。この会を通して、本来お茶が遊びであり楽しいものである、という原点を見つめ直すきっかけになれば嬉しいと思います。その遊びの中で各々が「道」を見出して、人の生き様をそこに反映していくことこそが、茶の湯のあるべき姿なのではないかと思います。
千:年々、茶道人口が少子高齢化していますが、今のお茶が楽しくないということも一因としてあるかもしれません。このスキモノムスヒの会のような、お互いを尊重しつつ楽しめる、遊びとしてのお茶をもう一度復興し、これから皆様もぜひ周りの方々を巻き込んで広めていただければ、と思います。それでは本日は天気も良いので、外で最後のお煎茶を楽しんでください。
徳淵:それでは、煎茶席へご案内させていただきます。9月とはいえ、まだまだ暑いので、冷たいお煎茶を用意しています。風に当たりながら、さくっと食後のお茶を飲んでいただき、本日の会はお開きとさせていただきたいと思います。
煎茶席にて
今回は天候にも恵まれたため、点心の後に野点の煎茶席を設けました。参加者の皆様には、茂次郎が茶会を催していた時代と同じように、待合から茶席、点心席、そして野点席と茶苑全体をめぐり歩きながら、数寄者に愛された吉田山の歴史の深さを感じていただきました。市中の山居である「茂庵」で、皆様と楽しくご一緒できた中秋のスキモノムスヒのひとときは、徳淵さんの丁寧な一煎で、爽やかに締め括られました。
茶事を終えて
藤田:今回は、幼馴染の谷川さんがお持ちの茂庵で、このような会が開催できたことは感慨深いものがありました。また、茶の湯の未来を背負われている千宗屋さんには、「本名で参加してください」という大変失礼なお願いをして、今回特別にご参加いただきました。このスキモノムスヒは、「モノ」から始まるお茶の楽しみを伝えるために始めた会ですが、無理なお願いをお聞きいただいたことで、前回とはまた違い、少し締まった趣も皆さまには楽しんでいただけたかなと思います。
山口:ヒトがいて、モノがあり、トコロがある、それぞれが互いに縁深く一堂に会したような二日間でした。当館ともご縁のあった谷川さんがお持ちの茂庵という場所も、例えるなら下の茶屋である静閑亭と、上の茶屋である茂庵で数寄を楽しむ吉田⼭離宮での茶会のような趣が感じられました。また二日目は雨予報のなか、不思議と野外の煎茶席の前に雨が上がり、吉田⼭の自然の万物が味方をしてくれたように思えました。今回は、特別にご参加いただいた千宗屋さんがお持ちくださった銭蒔絵の茶箱に、当館の祥瑞茶巾筒が納まる、というまたとない機会を得るなど、学び多き時間を過ごさせていただきました。次回もどのような形になるか楽しみです。二日間ありがとうございました。
戸田:博多から始まったスキモノムスヒの活動も今回で第三回目を迎え、毎回新たな発見をさせていただいています。難しいことは考えず純粋な道具好きが集まる会として、これからもより多くの皆様と道具を通じた楽しみを共有できれば嬉しいです。そしてこの度、特別ゲストとして千宗屋さんをお迎えするという機会に恵まれました。ご参加いただき、心より感謝申し上げます。これからも道具を愛する皆様とともに、より良い場を築いていければと考えておりますので、よろしくお願いいたします。
徳淵:世は移り変わっても、時代ごとの美意識によって大切にされてきた道具たちを、この令和の時代に再度集結できるスキモノムスヒには、毎回意義深さを感じています。第三回は千宗屋若宗匠を迎えて、吉田山にちなんだ趣向で道具組を考えていただきました。お忙しい中のご協力に、心より感謝申し上げます。これからも様々な趣向でスキモノムスヒの企画は続けてゆき、現代の数寄者たちの縁を結んでいきたいと思っています。この度は、ありがとうございました。